梓日記

書捨御免!!!

AIとTuring Machine

AIというものがなにか:
それはチューリングマシンですでに実現済みだ

というのは
新しいアルゴリズムの実行を同一の装置で実現するという点において
リプログラミング可能そして自己をエミュレート可能な計算機は
すでにその点を実現しているからだ。

そして、人間がやっているように
新しいアルゴリズムを習得させることは
インターフェースを人と人の間の情報のやりとりに似せていけば実現可能であり、
インターフェースを改良したチューリングマシン
行動の選択肢のとりうる空間を大きくとった
汎用性のある強化学習アルゴリズムを実行すれば
ある評価関数を最大化するアルゴリズムは試行を繰り返した後学習させることが可能である。

その汎用に用いる強化学習アルゴリズム自体も
強化学習によって改良できるだろうか
ここは私は知らないが、ある評価関数があれば可能だろう。
強化学習アルゴリズムに違いは
適切な諸アルゴリズムの学習能力の違いにつながる。
人間もこれと同じである、という論を否定する根拠は寡聞にして知らない。

そう考えると、
案外いわゆる「人工知能」と聞いて、想像される人間とのコミュニケーションに似た
人工知能は、近いうちに実現する可能性があるのかもしれない。
チューリングマシンへ情報を伝達するセンサーの不足と
強化学習アルゴリズムの探索空間が現在の計算機の能力と現在の探索アルゴリズムでは
広大であることはおそらく問題だけれども
どれもこの20年のうちに解決される可能性は
十分にある。
すると、案外本当に、上で書いたことは実現できる可能性がある。
(AIブームなんて笑っているうちに)

追記:
囲碁はついにコンピュータプログラムが人間より強くなったねえ

interesting

「これっておもしろいよ!」
と言いたいっていうのは、1つの欲求だし、
それがないと、だんだんやる気が無くなっちゃう。
なので、興味が同じような人間と
話す機会を持とう。
データ解析を始めると、
なぜだかわからないが、
「おもしろい!」と純粋に思うようなことを
考えなくなってしまうようなので、
警戒しろ。
そして、そのような環境にいつづけるための
戦略も必要であることを
認識したほうが良い。

あと、この感覚
「おもしろい」
という感覚は、
「つまらない」
という感覚も同時に生むので
うまく社会と折り合いをつけるか、
尖って生きるかしないといけない。

いや、いいと思う
目の前の問題を解くことを楽しみにしているだけでは
奴隷のやることだ、
さらに、その研究が自分にとってどうして
大事なのかってことを
しっかり考えている方が
人間味があるってもんじゃないか。

Natureの2015 Editor's choiceをみた

Natureの2015 Editor's choiceをみました。

http://www.nature.com/nature/journal/v528/n7583/full/528490a.html

Quantum physics: Death by experiment for local realism Howard Wiseman (Nature 526, 649–650; 2015)

一番目の論文は量子物理学。
量子論ではベルの式が破れることがあることが理論上言われていて、
それの直接検証が成功した。
人に説明できるほど理解していないので、リンクを読んでください。
ベルの方程式が何かを知りたい方は、

http://plato.stanford.edu/entries/bell-theorem/

をよむといいと思われます。


Stem cells: Asymmetric rejuvenation Anu Suomalainen (Nature 521, 296–298; 2015)

幹細胞が非対称分裂する時について、
分裂前の細胞から分裂後の細胞に引き続き存在する、ミトコンドリアの古さと、その後の細胞の経過を調べた結果、古いミトコンドリアが少ない方が幹細胞としての性質を保つことが実験によって判明した。

元論文:http://www.sciencemag.org/content/348/6232/340
生物の論文はstatementを理解するのが簡単だ。


#つづく

老荘思想、とくに莊子というもの

高校の先生が専門が老荘思想だったことをきっかけに、
くわえて湯川秀樹かだれか有名な物理学者が莊子を愛読していたことが気になり、
莊子の逍遥游編と、斉物論編を数回読んだ。

説明がなく、結論とヒントがひたすら書かれていて、理解できなくて困った。
僕からすると、反論の余地が全然残されているように見えたり、そもそも説明がない。
推定される理解できるまでにかかる時間が無限で、弱ったなあ。

荘子〈1〉 (中公クラシックス)

荘子〈1〉 (中公クラシックス)

デザイナーとクライアントの喧嘩と、強化学習

デザインというよりデザイナーについて


ついこの間、人に頼まれて、素人ながらウェブページを作成したときに、デザインをして感じたことを書きます。
今日もまたふわっとした話だけれども、書きます。

問題提起

ある生産物について、客観的に評価関数が存在しているが、その関数の値は計算可能ではない

このような問題が存在する。このとき、生産物がよいかどうかは
客観的に決めることができない。
さらに、生産者と、その購入者が異なるとき、
購入者の主観的な評価関数の値が大きい生産物を、生産者は作成することを要求されるが
生産者の主観的な評価関数の値が小さい生産物である場合が存在する。
生産者は評価関数の値が小さい生産物を強制されて作成しなければならず、
納得のいかない仕事をこなすことになる。
納得しない労働は労働者にとって苦痛だ。

上は不正確で、正確に書きますと、納得のできない労働は私にとって苦痛です。

具体的には、デザインというものは、人になにかしらの感情を起こさせることを
目的に設計することがあるけれども、
人間の感情についての実用的な予測性能をもったモデルは未知なので、
上に書いた問題が起こる。
クライアントとデザイナーの評価関数が似ていれば似ているほどこの問題を避けることができる。
現代日本社会では評価関数が似ているペアを作るお仕事である、「コンサルタント」とか、
「編集」とか、「プランナー」という仕事が大盛況です。
これは広義には最適化問題をといているわけだ。


で、今日の提起は、

評価関数の類似性を計算するプログラムを書けないか?

具体的には、クライアントとデザイナーの評価関数が似ているかどうかを推測するお仕事を
計算機をつかって自動化したい。


1つめのアイデアは、
クライアントまたはデザイナーに専属で、失敗がある程度許される場合についての解決策。
クライアントの内部の隠れ評価関数を、いろいろなデザインを選択肢として、強化学習する。
これのナイーブなやり方はアンケートをとって次回に生かすってやつ。

2つめのアイデアは、
クライアントとデザイナーのペアと、そこから発生したクライアントの満足度を左右するデザイナーの特徴量を
今までの統計をみて、発見する。
そしてその特徴量をもとに今後は予測する。
これも強化学習のアプローチである期間の総満足度を最大化するようなことが、現実的には多くの場合初めはデータが不足するので、必要だろう。


Googleさんはこういうことをもうやっているのだろうか。
Googleの埋め込み広告の最適化はこういうアプローチでもできそう。他のやり方は知らん。
おしまい〜


・今日の一曲
チャイコフスキーくるみ割り人形

Tchaikovsky' Nutcracker Soundtrack

正直でいることのメリット

自分の感情と演繹から行動しているのはとても気持ちいい。
置かれている環境とかそこで適用される評価基準に従うと
その自分の姿についてあとあとになって同意できなくなる。
そもそもそんなに物を得てもしょうがないんだし、
素直に行動するのが一番いいなあと思った一日だった。
朝起きた時に、これから一日やることについて、素直に
同意できるのが僕の理想。



で、この点は生活スタイルだけじゃなくて、コーディングとか、
数学のスタイルとかについても、自分の行動という集合に含まれているわけで
素直に好きなプログラミングスタイルを使ったり、
納得のいく数学をやったりしたいね、ということかな。



少しだけ関連する話題を以下で触れます。
最近研究生活を送っていて、
成果の観点から優秀なひとの数はそれなりに多いということ、
かしこいひとはかしこそうなことをやりたがるということ、
かしこいひとの考え方が似ているように感じるということ、
をよく思います。


量産型優秀マンという言葉がしっくりくる。
他の業種もけっこういそう。


ぼくも考え方がにてくるときがしょっちゅうあって、その1つは成果という量を最大化するように自分の思考を最適化しているときだ。
(ディスカッションでだいたい同じことを思いつく)
僕はこの思考スタイルで生きているときもあって、でもある日突然自分の感情が無視されていることに気づいて、愕然とする。
僕はその時にけっこう精神的にダメージを受けてしまうので、だからなるべく気をつけています。


今日の音楽:

Butterfly Waltz by Brian Crain

研究の自由と、知識の信頼性が異る生物学を活用するための標準化

生物学における知識の信頼性について

生物学が医学・能楽応用を考えて研究しているの、それを称してどんどん突き進み、そうでないときは緊急性もないし厳密に科学知を蓄積していって、知識の信頼性について明確な表明を行いたいところ
医学・農学・生物学で知識の信頼度基準をそれぞれ制定しないと困るよ

生物についての科学的知識を、どのぐらいその知識が信頼できるのかの基準が必要だ。信頼できるものだけが科学というなら、科学を称する生物学では明確に基準を作成して査読前に示し、本論文誌では信頼性標準[blabla]を採用している、と宣言することによって、読む側が論文を読むときにとても役立つ。
医学・農学への応用では、時間